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東京高等裁判所 平成9年(う)1503号 判決 1998年9月21日

(本籍・省略)

(住居・省略)

無職(元弁護士・元会社役員)

(生年月日・省略)

右の者に対する証券取引法違反被告事件について、平成九年七月二八日東京地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から控訴の申立てがあったので、当裁判所は、検察官久我逸夫出席の上審理し、次のとおり判決する。

主文

原判決を破棄する。

本件を東京地方裁判所に差し戻す。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人饗場元彦、同藤縄憲一、同草野耕一作成の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官尾﨑幸廣作成の答弁書に各記載されたとおりであるから、これらを引用する。

弁護人の論旨は、被告人による日本織物加工株式会社(以下「日織」という。)の株式の買い付けは、証券取引法一六六条一項四号、二項一号で禁じられた内部者取引には該当しないのに、同法違反の罪の成立を認めた原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認がある、というのである。

そこで記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討し、つぎのとおり判断する。

一  秘密保持契約の買収交渉事実への適用の有無について

所論は、平成六年三月一五日株式会社ユニマット(以下「ユニマット」という。)と日織及び東海染工株式会社(以下「東京染工」という。)が締結した秘密保持契約で開示が制限された「情報」には、買収交渉の事実そのものは含まれていないのに、右交渉の事実も「情報」に含まれると認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認がある、という。

そこで検討するに、一般に、M&A交渉を開始するに際して、その当事者間で秘密保持契約を締結する趣旨は、単に、交渉の過程で知り得た相手企業に関する個々の財務及び技術情報等の第三者への開示が、当該企業の社会的信用や技術競争の面等で不利に働くことを防止するというだけに止まらず、M&A交渉をしていること自体についての情報が、交渉企業の従業員の士気、取引先や金融機関あるいは社会に対する信用を左右し、特に、上場企業の場合には株価にも様々な影響を与えるなどして、M&A交渉の成立に困難を来す場合が多いことからであると考えられている。ところで、本件秘密保持契約書においては、その第一条に「情報」の定義をした上、第二条(1)の本文で「情報」の秘密を保持すべきことなど及びそのただし書で四つの例外を規定しているが、M&A交渉の事実を秘密にすべき「情報」から除外するような文言はない上、買収交渉の事実自体及び買収について交渉当事者がいかなる姿勢をとっているかは、買収の成否に直結する極めて重要な情報であって、交渉当事者から相互に開示された個々の細かな情報が開示禁止の対象とされていながら、特段の事情もないのに、M&A交渉事実やその当事者の姿勢に関わる情報が禁止の対象ではないと解釈することは明らかにバランスを失すると考えられるところ、現に、ユニマットの代表取締役社長A、東海染工の代表取締役社長B及び同社常務取締役C、株式会社レコフ(以下「レコフ」という。)の代表取締役副社長Dらは、いずれも検察官調書において、M&A交渉の事実自体も秘密にすべき事柄であったことを認めており、右供述調書の信用性に問題はなく、実際に、B社長やA社長は、各会社内部においてさえも、極少数の者以外にはM&A交渉の事実が知られることのないよう極秘扱いの措置をとり、秘密の保持に努めていたことなどに照らすと、本件秘密保持契約においては、M&A交渉の事実自体も、第三者への開示が制限された「情報」に含まれることは明らかであり、この点に関する原判決の認定に誤りはない。

また所論は、M&A交渉に際し、被買収側企業にとっては、よりよき買収相手を模索する必要がある一方、買収側企業にとっても、買収資金の調達先等を自由に選定できるようにしておく必要があり、そのいずれにとっても、M&A交渉の事実は、不特定又は多数の第三者への開示を禁止すれば十分で、契約によって、いかなる第三者への開示も一律に禁止する必要性はない、という。

しかし、本件秘密保持契約においては、所論の必要性が認められる事案ではなく、仮に、双方の企業において、所論のような必要性が生ずるとしても、そのために、特定の第三者に対するM&A交渉の事実の開示が原因となって、さらに右情報が広がって、M&A交渉の進展の大きな阻害要因になる危険性があり、交渉当事者が、そのような事態を防止する必要性を感じて、M&A交渉の事実自体の第三者への開示をも一般的に禁止する趣旨で、秘密保持契約を締結することはなんら不自然ではないから、所論指摘の点は、本件秘密保持契約の「情報」に関する前記認定を左右しない。

さらに所論は、レコフが、平成五年三月三一日付け及び平成六年五月二三日付けで、東海染工及びユニマットとの間でそれぞれ締結した仲介・斡旋の依頼書には、「相手方から開示された資料・情報」のみを「情報」と定義した上、これとは別に「交渉の事実」を取り上げ、第三者への開示を禁止しているのに、同じレコフがユニマットからの依頼書と近接する時期に作成した本件秘密保持契約書には、交渉事実の開示を禁止する文言が挿入されていないことから、「交渉の事実」は本件秘密保持契約の対象から意識的に外されたものと推認できる、という。

しかし、そもそも秘密保持契約書と仲介・斡旋業者への依頼書とでは、単に契約の当事者を異にするばかりではなく、契約の締結目的等も異なるものであることが明らかである上、本件秘密保持契約書中に、特段の記載がない「交渉の事実」が依頼書に書き加えられているのは、依頼書の中で規定された「資料・情報」が、レコフと東海染工間、レコフとユニマット間で、それぞれやりとりされることを予定しており、買収交渉の直接の当事者間で開示されるものではないため、本件買収交渉の事実を含んでいない疑念があったことから注意的に付加したものと考えられるので、依頼書と本件秘密保持契約書の文言の相違が所論を裏付けるものとはいえない。

なお所論は、本件買収交渉の事実を開示されていたユニチカ株式会社(以下「ユニチカ」という。)が、本件秘密保持契約の当事者となっていない事実は、本件秘密保持契約が、買収交渉の事実を含む趣旨のものではなかったことを推認させる、というが、ユニチカは、東海染工と並ぶ日織の大株主で、東海染工との改訂基本契約書等によって、同社に日織の経営の執行責任を全面的に委ねていたものであり、本件秘密保持契約上、M&A交渉の相手に準ずる地位にあり、かつ、その保有する日織株の譲渡問題については、ユニマットとの間では正に当事者となっていたのであるから、本件秘密保持契約上、当事者に準ずる地位にあり、「第三者」とみることはできず、ユニチカが本件秘密保持契約の当事者とされていないのに買収交渉の事実を開示されている点をとらえて、所論のような推認をすることには無理があるというべきである。

論旨は理由がない。

二  証券取引法一六六条二項一号にいう「当該上場会社等の業務執行を決定する機関」の意義及び本件での機関

所論は、株式会社における新株の発行は、商法上、取締役会の決議事項とされているところ、日織の取締役会又はその各取締役が、ユニマットに対する第三者割当増資を行うことについての実質的決定権限を日織の代表取締役社長E(以下「E社長」という。)に委ねた事実はないのに、右増資を行うにつき、E社長を日織の決定「機関」であるとした原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認がある、という。

この点について、原判決は、「E社長は、親会社の了解を得れば、改めて取締役会においてその点に関する権限を付与する旨の決議を受けるまでもなく、日本織物加工の経営全般、例えば第三者割当増資を実施するための新株発行といった取締役会が最終的には決定するような重要な事項も含めて、事前の実質的な決定を行う権限を各取締役から与えられていたと認められる。」との判断を示した上、「E社長は、取締役会の決議に準じた形で付与された、第三者割当増資を実施するための新株発行の事前の決定を行う権限を有していて、「機関」に該当すると認められる。」と判示する。

そこで考察すると、証券取引法一六六条は、会社役員等一定の立場にある会社関係者が、一般投資家の投資判断に著しい影響を及ぼす上場会社等の運営、業務、財産に関する重要事実について知った上、その事実の公表前に当該会社の有価証券等の取引を行うことを禁止している。これは、会社役員等が、その立場上一般投資家の投資判断に著しい影響を及ぼす会社の業務等に関する重要事実を知りながら、その事実を一般投資家が知ることができる前に、有価証券等の取引を許すならば、一般投資家より著しく有利となって不公平をもたらし、市場の公正さが損なわれかねないので、証券市場の公正性と健全性に対する信頼を確保するという観点から、上場会社等の業務等に関する重要事実についての内部情報に基づく会社関係者の有価証券等の取引を禁止したものといえる。そして、証券取引法一六六条二項一号は、同条一項に規定する上場会社等の業務に関する重要事実に該当する事実として、上場会社等の業務執行を決定する機関が、イないしヌに掲げる事項を行うことについての決定をしたことと定めるが、このように業務執行を決定する機関が一定の事項について決定することが、重要事実に当たるとされているのは、それが一般投資家の投資判断に著しい影響を及ぼすからであるといえる。そうすると、業務執行を決定する機関が法所定の事項について決定するとは、商法等が業務の適正な執行という観点から当該事項の決定権限者やその方式を定めているのとは別途に、一般投資家の投資判断に著しい影響を及ぼすか否かという観点から判断すべきで、商法等が定める決定権限者がその定められた方式に従って決定した場合に限らず、会社の一定の立場にある者が当該事項について決定することが、実質的に会社としての意思決定と同視され、一般投資家の投資判断に著しい影響を及ぼすことが、実際上存在するので、そのような場合も、含まれると解すべきであり、そのような決定をなし得る立場にある者を、業務執行を決定する機関に当たると解して差し支えない(以下「機関」という。)。

そして、このように会社の一定の立場にある者が、実質的に会社としての意思決定と同視される決定をなし得る「機関」に該当するかどうかについては、当該会社内部における意思決定の実態によって決せられるというべきである。

そこで、これを日織についてみると、東海染工とユニチカは、両社がほぼ二対一の割合で日織の発行済み株式総数の過半数を保有する大株主(以下、両社を「両親会社」という。)であり、E社長は、ユニチカとの契約(改訂基本契約書、改訂基本契約書変更同意書等)によって日織の経営執行責任を負っていた東海染工から、業績が悪化していた日織の経営再建を目的として平成四年六月に出向派遣された役員であり、日織に着任以来、同社の自己資金を超える設備投資等に関する資金・増資計画、株主配当等の重要な業務執行を決定する場合には、東海染工のB社長やC常務との相談・了解を得た上、両親会社の意向に沿って行ってきたものであること、当時、日織の取締役会を構成する他の取締役四人も、両親会社から二人ずつ派遣されており、Eが日織に派遣されたいきさつも知悉しており、法律上は日織の取締役会の決定が必要とされる事項でも、両親会社が了承した案件について、E社長が事実上の決定を下した事項に対し、日織の取締役会で反対が出る事態は考えられず、その意味においては取締役会の承認は、形式的な追認に止まっていたこと、ユニマットとの第一次M&A交渉が進行中の平成六年五月一二日、E社長が、日織の取締役会において、増資等について東海染工と相談しながら進めているが、その詳細は説明を控える旨述べた上、増資の前提となる日織の授権資本を二〇〇〇万株から四〇〇〇万株に拡大する株主総会案件を諮った際も、各取締役からの質問や異論もなしに了承されたことなどの事実が認められる。

以上によれば、E社長が、同社の運営、業務、財産の重要事項について、最終的には取締役会の決議事項とされている事項であっても、両親会社の了解を得て決定した場合には、他の取締役から異論が出ることはなく、同会社としての意思決定とみなされる実態にあったものといえるので、E社長が両親会社の了解を得てする決定は、「決定」たりうるので、同社長は、両親会社の了解を得て決定する限り、「機関」たりうる立場にあったものといえる。

なお、原判決は、前記のように、E社長は、親会社の了解を得れば、事前の実質的な決定を行う権限を各取締役から与えられていたと認められるとして、その「機関」性を認めるが、本件新株発行を行うことの決定(原判決の「本件決定」)をするについては、ユニチカのM&Aについての合意がいまだない、すなわち「機関」たりうる前提としての親会社の了解がない段階で、機関としての決定をしたことを認めているのであるが、これは前記一般論として判示するところと、その具体的適用との間に統一性を欠く感がある。

所論は、1E社長に日織の新株発行に関する実質的決定権の授与があったというためには、たとえ両親会社が本件増資に同意した場合でも、E社長が独自の立場から本件増資に反対する可能性が客観的に存在し、その場合には、E社長の判断に従って本件増資に反対することに各取締役が同意していたという事実が認定されなければならない、2E社長に全面的に権限を委ねていたという同社取締役三名の各検察官調書中の供述は、①委任の日時、場所、形式につき具体性がない、②日常業務とは性質を異にする増資に関する実質的決定権を、E社長に授与したことを基礎づける前例や慣例もなかった、③ユニチカ常務取締役F及び東海染工のC常務が、両社の日織派遣取締役らに対し、同社が増資を決定した平成七年三月三日の直前に取締役会で増資に賛成するように指示していたことから、信用できない、という。

しかし、所論中、1の点は、E社長が本件の増資を発案し、親会社にも強く働きかけていたという現実を無視した、利益相反の場面を設定し、そこでの自主性、自律性を必要とするもので、採用できない、2の点は、なるほど、E社長の就任後、日織で増資が行われたことはなく、その取締役会が、本件に至るまで、新株発行の決定権をE社長に具体的、明示的に委ねた事実はないけれど、前述のような日織と両親会社との関係、Eが社長として派遣された経緯と日織の役員構成、本件に至るまでの同社の重要業務に関する決定方法、同社取締役らとE社長との信頼関係等に照らすと、増資そのものに関する前例及び慣行はないが、E社長が、新株発行についても、両親会社の了解を得た上、日織として事実上の決定をする権限を各取締役から委ねられていたと解しても何ら不自然ではなく、日織の取締役会が新株の発行を正式に決議する直前、F常務及びC常務が日織派遣の各取締役らに対し増資賛成の指示をした点も、各親会社の意向を確認的に知らせたものにすぎず、それ以前に、E社長が、両親会社の了解を得た上、新株発行に関する事実上の決定をする権限を有していたこととなんら矛盾するものではないから、前記日織各取締役の検察官調書中の各供述は、十分信用できるものである。

三  証券取引法一六六条二項一号の「決定」の意義及びE社長による新株発行の「決定」の存否について

所論は、平成七年一月一一日におけるE社長のC常務に対する発言は、東海染工及びユニチカの合意する企業に日織を買収してもらいたいという従来再三示してきた願望の表明であって、第三者割当増資の意思決定の要素を含んでおらず、ユニチカはもとより、本件増資に関する東海染工の同意も確定していなかったから、証券取引法一六六条二項一号にいう「決定」と解する余地はない、という。

そこで、検討するに、この点に関する原判決の認定・判断には、以下述べるとおり、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認、法令解釈適用の誤りがあり、破棄を免れないというべきである。

原判決は、(犯罪事実)の中で、被告人は、「本件秘密保持契約の履行に関し、日本織物加工の業務執行を決定する機関であるE社長は、日本織物加工株のユニマットへの直接譲渡等に難色を示すユニチカの問題に決着がつけば、ユニマット及びその関連会社に対し、第三者割当増資を実施するために新株の発行を行うとの決定をしたことを知り(中略)、さらに、同年二月九日ころ、D副社長から、そのころ、ユニチカが直接取引に応じることになった旨を聞いて右決定中の障害事由がなくなったことを知った。このようにして、被告人は、本件秘密保持契約の履行に関し、日本織物加工の業務等に関する重要事実である、日本織物加工の業務執行を決定する機関であるE社長が第三者割当増資を実施するために新株の発行を行うとの決定をしたことを知った。」と判示し、また、その(争点に対する判断)の中で、「以上によれば、E社長は、遅くとも平成七年一月一一日には、ユニチカが難色を示す保有株のユニマットへの直接譲渡に決着がついて障害事由がなくなれば本件第三者割当増資を実施するための新株発行を行うことを、C取締役に表明する形で決定していた(以下「本件決定」という。)と認められる。」とし、「本件決定は、前記ユニチカの合意が得られることという不確定な要素を含んではいるが、右合意が得られた時点で、前記新株発行を行うこととしているのであって、新株の発行時期こそ未確定ではあるものの内容的には本件スキーム案を前提としたかなり具体的なものであることから、右障害事由がなくなったときに投資家の投資判断に影響を及ぼす事実に該当すると解される。したがって、本件決定は「決定」に該当する。もっとも、規制対象として合理性がある「決定」といえるためには、本件決定中にある障害事由がなくなっていることも必要であるから、そのこと自体は「重要事実」に含まれるが、弁護人が主張するように、その決定をしたE社長自身が右の点の認識を得ることまでは要しないと解される。」と判示する。

原判決は、結局、E社長が同年一月一一日までに、第三者割当増資を実施するための新株発行を行うことを決定していたことのみならず、ユニチカの合意という新株発行の前提たる障害事由がなくなったことが加わって、証券取引法一六六条二項にいう「決定」があったといえるとの判断を示しているものと解される。

しかしながら、同法一六六条二項は、「前項に規定する業務等に関する重要事実とは、次に掲げる事実(中略)をいう。」とし、その一号に「当該上場会社等の業務執行を決定する機関が次に掲げる事項を行うことについての決定をしたこと(以下省略)」とし、その一つとして、イ「株式(中略)の発行」を規定しているのであって、まず、条文の文理解釈上、当該上場会社等の業務執行決定機関が新株発行を行うことについての決定をしたこと自体を、規制の対象となる重要事実と規定していることは明らかであり、原判決のこの判断は、同法一六六条二項の条文にないものを付加し、同項が、一項が重要事実を知ってする取引を禁止しているのを承けて、投資家が取引時点においてその取引が禁止及び処罰の対象となるのか否かが明確に判断できるものとするため、重要事実を客観的に明確化し、もって取引の安定性と規制の実効性の調和を図ろうとした趣旨に反するといわねばならない。もし、機関の決定があっても、障害事由の消滅等他の事情が加わらなければ、一般投資家の投資判断に著しい影響を及ぼす重要事実たり得ないというのであれば、そもそもいかなる事情が加われば重要事実たりうるのか、また、当該事情如何によっては、いつ重要事実たりうるのか、明確でなくなり、ひいてはいかなる人物や組織の決定が重要事実たる内容となるのかさえ明確でなくなるおそれがあり、重要事実を客観的に明確化して、取引の安定性と規制の実効性の調和を図ろうとした前記法の趣旨に反し、法的安定性を害すること甚だしいといえる。さらに、原判決は、障害事由がなくなったことを機関であるE社長自身が認識することまでは要しないと判断するが、機関自身が重要事実化したのを知らないうちに、会社内部の重要事実が決まるという不合理な事態が生じることになりかねない。

そこで、証券取引法一六六条二項一号にいう「決定」をしたことといえるためには、当該事項についての当該機関の当該決定自体をもって重要事実たりうるものでなければならない。すなわち、一般投資家の投資判断に著しい影響を与える重要事実に該当する決定があって、初めて「決定」に該当するというべきである。そして、いかなる決定が、一般投資家の投資判断に著しい影響を与える重要事実に該当するかであるが、それは当該決定が、会社の機関としての意思決定で、当該決定にかかる事項が右決定に基づき確実に実行されるであろうとの予測が成り立つものであって初めて、一般投資家の投資判断に著しい影響を与える重要事実に当たるものというべきである。

以上の観点から、本件について検討すると、本件は、一会社の業務執行決定機関が、新株発行を事実上決定しさえすれば、その後の新株発行の事務手続に特段の支障がないという通常の第三者割当増資(新株発行)の事案ではなく、ユニマットという特定の第三者割当増資問題と並んで、両親会社が保有する日織の既存株の譲渡及び残存株の取り扱い、日織の新たな役員構成及び業務内容等も併せて、M&A交渉という大きな枠組みの中で話し合われていた(スキーム案参照)ため、日織の第三者割当増資(新株発行)が可能な状態となるか否かに関する事実上の決着は、本件M&Aの事実上の決着と軌を一にする関係にあったものと解される。E社長は、本件において、ユニマットとM&A交渉を進めること自体については、第一次M&A交渉の段階から東海染工側に交渉権限を全面的に委ねていた上、日織独自の判断でM&A交渉を妥結させる立場になかったことは、そのスキーム案が、日織のユニマットへの第三者割当増資(新株発行)と並んで、日織に直接関わりのない両親会社の保有する日織株の移動に関する事項を含んでいたことから明らかであり、本件のように、それぞれ立場を異にする四つの企業が独自の利害関係を有するM&A交渉の条件の一つに取り込まれた日織の第三者割当増資(新株発行)について、E社長が、証券取引法一六六条二項一号にいう新株発行を行うことについての決定ができる状態となったといえるためには、両親会社がE社長に対し、単に新株発行による増資の了解を与えたというだけに止まらず、M&Aの前提条件としてユニマット側から提示されていた既存株の譲渡を含む他の問題全般の解決の見通しがついて、M&A交渉が事実上妥結するとみられる段階に至っていることが必要と認められる。本件での新株発行は、両親会社を含めたユニマットとのM&A交渉の一環として話し合われていたため、日織の本件新株発行が実現されるか否かは、このようなM&Aの実現に左右される関係にあったものである。しかし、このM&A交渉は、東海染工が窓口となってユニマットとの間でなされていたのであって、M&A交渉が事実上妥結するとみられる状態になったとき、それを承けてなす新株発行についての日織の機関の決定にして初めて、新株発行が確実に実行されるものとして投資家の投資判断に影響を与えるものと解される。そして、同年一月一一日の時点では、両親会社は、第一次スキーム案に沿ってM&A交渉をユニマットとの間で進めることについては基本的に了解し、日織のユニマットに対する第三者割当増資(新株発行)についても格別異論を唱えておらず、さらにユニチカは、東海染工の主導で右交渉を進めることについて了解していたものの、第一次M&A交渉の過程でユニチカが難色を示していたユニマットに対する日織株の直接譲渡問題については、その具体的解決の見通しもついておらず、かつ、本件一連の経過に照らし、本件M&Aの成立の可能性を大きく進展させたとみられる同年一月二五日開催のB、A両社長のいわゆるトップ会談前であって、本件M&Aが現実的に成立する可能性については、必ずしも予断を許さない段階であったほか、新株の発行時期、発行株式数等の詳細についても、第二次M&A交渉としては、具体的な交渉やこれを煮詰める話し合いがほとんど行われていない段階にあったものと認められる。したがって、同年一月一一日のE社長のC常務に対する発言が、日織の新株発行に関して、親会社に向けた積極的態度表明の要素を有するものではあるが、未だ新株発行に関する機関の「決定」とはいえない。結局、本件では、同年二月八日に、ユニチカが保有株の直接譲渡に応じる了解をしたことをもってM&A交渉が事実上妥結するとみられる状態になったものと解されるので、それ以後において、機関たりうるE社長においてなす新株発行の決定が重要事実たり得るというべきである。

したがって、同年一月一一日のE発言にみられる「本件決定」をもって、同法一六六条二項一号の「決定」があったとし、かつ「本件決定」が、同年二月八日のユニチカによる保有株の直接譲渡の同意により、新株発行の障害事由が消滅したことによって、同法一六六条の重要事実となった旨判示した原判決の事実認定及び同条の解釈には、事実誤認、法令の解釈適用の誤りがあり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

論旨は、この点において理由がある。

四  結論

したがって、その余の所論に対する判断をまつまでもなく、刑訴法三九七条一項、三八二条、三八〇条により原判決を破棄することとするが、なお、本件においては、ユニチカが日織の保有株をユニマットと直接取引することに応じる了解をし、M&A交渉が事実上妥結するとみられる状態となった同年二月八日以降、被告人が日織株の買い付けを行った間に、日織の業務執行決定機関が同社の新株の発行を行うことについての決定をしたと認める余地があるか否か、これがあるとした場合、被告人が右決定を知った上、日織株の買い付けを行ったものであるかについては、原審以来争点となっておらず、これらの点の審理に関する審級の利益を考慮し、訴因変更の手続き問題の点も含め、原審でさらに当事者の主張と立証を尽くさせるため、同法四〇〇条本文により、本件を原裁判所である東京地方裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 松本光雄 裁判官 松浦繁 裁判官 樋口裕晃)

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